「論文」
自治体学会 論文本文/2000.09記

■ 行政参加と住民評価で人づくり ■ (本文)

(1)地方自治と企業と評価
(2)住民が望む自治体になるプロセス
(3)行政参加と住民評価
(4)まとめ

いわゆる地方分権一括法が成立し、まさにこれから地方の時代となる。私は、住みたい富山研究所を個人で開設し、富山県内全35市町村の格付けなどを行っている。これは、多くの研究所で行われている統計など数値に基づいた評価ではなく、自治体の知恵や工夫というソフト面からの切り口で評価を試みている。私の富山におけるこれまでの実践と経験をもとに、自治体の人づくりについて考えてみたい。

(1)地方自治と企業と評価

・地方自治と誇り
地域づくりで大切なのは、「誇り」である。誇りは単なる主従関係からは決して生まれない。誇りは小さくても自立している環境から生まれる。誇りは相対的なものであり、他の地域との比較や交流、そしてその地域自身を見つめることで生まれる。 地域づくりのポイントは誇りということだが、誇りを感じるのは住民がその誇りの中に属し、住民自身が役割を担い主体的にその役割を果たしていると実感しているからである。誇りを持つためには、住民が主体として参画している実感が必要である。 地域の自然環境や祭り、文化、歴史に誇りを持っている住民は多いが、自治体自体に誇りを持っている住民は少ない。これは、住民自身が自治体を対等な関係として認識しておらず、また、自治体の中での自分の役割やアイデンティティ−の存在がないからである。
・企業づくりと人材評価
企業づくりは「人づくり」とよくいわれる。企業においては、管理マネジメントが重要であり、歯車という言葉が使われたり、上下関係が存在するわけであるが、社員は自分の役割を見いだしている。自分に与えられた役割が属する企業への誇りともなっている。社員が育つことが企業が成長する前提である。近年ではストックオプション制度などのインセンティブ手法もとられたりしているが、基本は自分の力や成長が企業の力や成長になるというプロセスを期待した制度である。 年功序列から成果主義への移行が進んでいる。この時一番課題になるのは、成果をいかに計るか、つまり人を評価するということである。人の評価に100%という制度は決して見つからないだろうが、人の評価が間違っていれば、人が育たず、結果としてその企業は成長しない。自治体は企業セクタ−とは違う目的の組織であるが、いかにうまく組織を機能させるかという点ではまったく同じである。自治体にも人材を評価するしくみが必要である。
・無評価によるモラルハザ−ド
自治体内の人材評価システムの原則は差をつけないということだ。民間では近年差をより大きくする傾向にあるが、自治体での差は皆無である。差をつけない(評価しない)ということは、「悪貨が良貨を駆逐する」という社会的に好ましくない状態が起こりうる。例えば介護保険。介護保険制度は、福祉に市場原理を持ち込むことでサ−ビス提供者側がコスト主義に走り、サ−ビスの質の低下を招くのでないかと危惧する人もいる。つまり、一時間という決められた家事労働の単価を稼ぐとして、単価は決められているから利潤を増やそうと思えばコストを切り詰めサ−ビスの低下を招く。サ−ビスを受ける側はサ−ビスの質について全能的な情報を知りえないので、結果的に選択という市場システムが機能せず、善良なるサ−ビス提供者側は馬鹿を見るというような論理である。ただ、だからといって市場原理による競争を否定するような後向きの発想では社会的効用が創造されない。市場原理をうまく機能させるようなしくみを前向きに考えたい。市場原理をうまく機能させるのに重要なのが、評価ということである。サ−ビスの質が市場で評価されていれば、サ−ビス提供者側のモラルハザ−ドは回避できる。競争は発展の源泉であるが、競争がより社会的な競争となるためにはサ−ビスの質が評価され、サ−ビスを受ける側が主体的に選択できないといけない。
・自治体サ−ビスと評価
自治体の公的サ−ビスも同じである。評価が大切である。自治体の窓口で無愛想なことがある。これは、愛想のよい人が入ってきたとしても、無愛想で楽をする人がいれば、どうしても悪い方に流されてしまう。無論、管理職への登用などの際に、人格や成果が評価されるわけであるが、それは長期的な評価であり、長期的な評価を待てない場合は、悪い方になびいてしまう。 無愛想がなぜ温存されるのかという理由の根本は、自治体には「お客さま」がいないということではないだろうか。富山市のまちづくり研究会において、株式会社富山市という認識で市民をお客さまととらえるくらいのことが必要だ、と発言したら、職員会員から猛反発があった。公平公正に公務を遂行している自負から出た不快感かもしれない。しかし、今後は公務ということの原点を見つめる必要があるのではないだろうか。 本来自治体は自分たちの生活の問題を解決するために、集まるということでの利益を得るために生まれた組織である。しかし、これまで歴史的な経緯や国、県、市町村という3層の上下関係・主従関係的な位置づけもあり、自治体が誰のためにあるのかなおざりになってしまっていた。自治の主役は住民である。主役である住民同士がお互いをそれぞれ認識できる原始自治状態なら、それぞれの役割と成果が見えるから、評価は自然発生的に完結する。また、主役である住民が集団で住むという利益を信託した自治体と有機的につながっている小さな自治体のような場合も問題はあまり発生しない。ただ、現代のような顔のみえない大きな自治体になり、心より機能的な役割が重視されるようになると、評価手法が必要である。
・CSという民間手法
自治体は民間企業とは目的が違うが、評価という面では企業の手法が参考となるであろう。一言でいえば、住民を「お客さま」ととらえるくらいの意識改革が必要である。もちろん、住民は純粋な意味のお客さまではない。自治に主体的に係わり、責務を果たす「市民」としての役割が求められている。ただ、自治体には組織力があり、上下関係の「上」という意識がまだ根強いということを考えると、住民をお客さまととらえるくらいの謙虚さが今必要とされている。 民間企業では、顧客満足度(CS)をいかに向上させるかが重要だ。規制緩和やグロ−バルスタンダ−ドの環境のもと、お客さまの選択肢が増えるという競争時代においては、CSの向上が企業の存亡にとってますます重要となっている。 自治体が現代のように心の組織から機能面で組織化されてくると、自治体や行政にも「CS」という概念が必要である。先に記述した自治体の窓口が無愛想であることの改善は、自治体内部での管理職登用などのみの評価システムでは限界がある。主役である住民の評価を、いかに自治体内部に蓄積していくかが重要である。民間企業では、お客さまのクレ−ムは製品開発やサ−ビスの向上にとって大きな財産である。お客さまの声を大切にしない企業は伸びない。しかし、自治においては、住民の声は財産というより、避けるべきもののように扱われてきた。主役の声が生かされない社会はうまく機能しない。住民の声を反映しにくい自治体は、住民も不幸だし、自治体自体も不幸である。 また、管理職への登用でいくら自治体内部での評価システムが整っているとしても、その登用システムがその組織の目的、つまり住民の生活の向上というベクトルと合致しているかが問題である。主役である住民側の評価を自治体の評価システムの中に取り入れていかないと、まったく方向違いの評価登用システムとなりうる。自治体の評価登用システムが間違っていて、主役である住民のニ−ズに合致した好ましい職員が正当に評価されなかったりすれば、自治体内に本来必要とされている人が育たず、いつまでたっても住民が望む自治体になることができない。

(2)住民が望む自治体になるプロセス

住民側の評価で住民が望む自治体になるプロセスを考えてみたい。
・首長と議員の人づくり
首長や議員は直接選挙で選ばれる。住民の意思を反映する民主主義のシステムである。首長は自治体経営にとっての長であり、一票一票の民意で選ばれるという意味では、安定株主を前提として組織内部から選出される民間企業の社長より、より民主的なプロセスの結果である。しかし首長は、民間企業の社長よりも長期になるケ−スが多く、地域の団体と結びついた組織票で当選を繰り返すようなシステムは好ましい状況ではない。予算の既得的配分で「力」を振るうのではなく、自治体に属する住民の生活向上のために知恵と工夫に「力」を振るい、地域をデザインし行動する首長が求められている。 議員については、議員立法的な役割も期待されているわけであるが、基礎自治体においては、職員数に比べ議員数が少ない、また議員の多くが別に職業を持っていることから、現実的には、立法機能よりも議員チェック機能を高めていくことがより重要である。民間企業も含め、日本の組織全般に言えることだが、チェック機能が極端に弱く甘い。自治体においては、直接選挙で選ばれた議員がいることで、民間企業よりもチェック機能が働いている組織とも言える。 議員の選出が地区割になりがちなのは、地区住民の本能として仕方のない面がある。議員の役割として、選出地区の声を自治体に伝えたり、予算獲得のような、いわゆるどぶ板的役割に終始されているのなら当然のことである。しかし、近年、いわゆる「市民派議員」が増えている。市民派議員は特定の地区や組織に依存せず、自分で考え行動する自立志向の議員である。議員活動は原則公開を志向している。住民の共感をベ−スに選出された議員であり、任期中の行動や実績が共感を得れなければ次回の選挙では当選できない。お金の力というより共感の力で選出されている議員であり、住民の声が既得権維持型ではなく、問題解決型で反映するという意味では、自治を担う議員の理想形である。 また、議会制度として一案。住民の声が反映された自治体のあるべき意思決定機関として議会の役割を考えたなら、制度として定着するまたは実現するのは難しいが、議員定数を極端に上下させるというアイデアはどうだろうか。具体的には、現在の議員定数が20なら、4年間は10、次の4年間は30、そして次の4年間はまた10に戻すというような制度である。これなら8年間の議員数の平均は20であり、議員費用が増えない。10から30への改選時には、必ずしも組織票が必要なくなるから、若い人や女性、障害者などが当選する余地が高まる。多様な価値観を共有する4年間である。30から10への改選時は、定数が多かった4年間で実績をあげた議員のみが当選することで住民の意思が反映される。信託実行する4年間である。費用を増やさずマンネリ化を防ぎ、より議員の力を引き出す制度ではないだろうか。
・職員の人づくり
首長や議員の役割は、民主主義の制度として認知されているが、自治体にとって一番大事なのは職員の「人づくり」である。民間企業の発展は人材に終焉する。自治体もミッションは違うが、組織であり、同じである。首長や議員がいくら優秀でも、その自治体の総合力を出せない。地方分権では、各自治体の知恵や工夫の蓄積、そして行動が重要となる。今後「VOTING ON FOOT」という状況が進むだろう。自治体間競争ということだが、自治体間競争に勝つためには、相対的な基準ではなく絶対的な基準によるアクションが必要なのではないだろうか。つまり、他の地域から人を呼びこむという発想ではなく、そこに住んでいる人がいかに幸せに暮らせるかという自治体本来の役割が大事だ。知恵と工夫という近道のない地道な積み重ねが大事である。 国・県・市町村という従来型の上下関係の3層構造では、いかに首長が予算を獲得してくるかが重要だった。しかし、自立した地方分権時代では、集めた税金をいかに有効に使うかという自治体の原点を見つめる時代である。補助金を獲得し使い切れば地元にお金が落ちるというような税金の使い方は許されない。公共事業が問題となっているが、公共事業の中でも、より安易に予算執行できる河川や港湾が重宝されている。生活に密着した公共事業はそれだけ利害関係が伴う。利害関係の調整には苦労が多い。苦労を避け、生活から離れたところで税金が使われる傾向がある。自治体の原点からはおかしな現象ということになるが、自治体という組織の論理からいえば安易な方向に流れるのももっともなことである。首長や議員は方向を決める役割を持つ。それも勿論重要だが、より重要なのは、予算執行を担う職員レベルの知恵と工夫である。住民の幸せが見える心のこもった予算執行が行われなければ無駄な使い方となってしまう。

(3)行政参加と住民評価

住民の幸せが見える職員を育てるためにはどうすればいいだろうか。 自治体内に「行政参加」という風土や文化を育てることが大事だと思う。行政と住民との協働(コラボレ−ション)ということで、さかんに「住民参加」ということがいわれているが、おかしな話でもある。住民参加という概念のベ−スには、行政はドンとしていて動かず、住民側が行政に近寄るというニュアンスおよび現実がある。自治体は、安定殿様商売というように揶揄されるようになったが、本来は自治体という動かない固定的なものがあってそれに住民が近づいていくという趣旨の組織ではなく、住民が主役、主役である住民に信託組織である行政が近づいていく、もしくは融合された一体的な存在ということだったはずだ。現状は自治体の力・組織力と住民個人の力とは大きな差がある。住民側が参加するというスタンスであれば、ある枠組みでは住民も情熱と熱意を持って自治に取り組んだとしても、自治体側の組織の論理が優先し、住民が裏切られることもある。この場合、熱意を持って取り組んだ住民の失望感は大きく、取り返しがつかなくなる。 行政と住民との協働の成否は住民参加をどれだけ精緻に行っても実はだめで、行政参加という風土や文化に収斂していくのではないだろうか。小と大の組織があれば、大の方が主体的に取り組む必要がある。 審議会においても住民の声を聞いたとする形式的な住民参加にとどまっているケ−スが多い。この反省を踏まえ、住民参加の段階を早めようとする動きがあるが、早めても住民側がそれぞれの代表としての意見を述べているだけなら、言った者勝ちや審議委員に選ばれた者勝ちという状況になり、社会的な成果はあがらない。また、公開討論会のような形で、より多様な意見を聞く場を設けるような流れもあるが、発言者が行政という強者に対抗するために意見を述べているだけというようなことなら、自治体側はこの討論会を凌ぐ、住民側は無駄とわかっていても問題を顕在化だけはしておくというように、双方にとって不幸な状況になる。住民の声は多種多様であり、住民参加を突き詰めれば、何も決められなくなる。行政参加という風土が育ち、自治体内で人が育つことが重要だ。
・任せることで行政参加
自治体という組織を住民がつくった意義は、「任せる」ということである。顔の見える範囲の自治体では、任せるということがうまく機能した。現代のように顔のみえない場合でも、「任せる」意義は継続しているはずだ。自治体の存在意義は、情報公開や説明責任が担保された上で、「任せる」ということではないだろうか。任せるという性質のものだから、いかにうまく自治体に任せるかということが重要となる。自治体の職員には、まず、「任される」ということの本質が再認識されるべきである。「任される」ということの本質が理解できれば、職員は自ずと住民の声を聞くために行動するはずである。自治体職員は、1日8時間自治に携わる専任者として、自治体住民の多様な声の中から、知恵と工夫を見いだしていく役割をはたすようになる。住民側も任せているという認識を持ち、情報公開や説明責任がなされていれば、自分たちの専任者(職員)を応援すべきである。応援されているからこそ各職員がそれぞれのアンテナで住民の声を聞くようになり、自治体内部に有機的に住民の声が反映されるようになっていく。情報公開などが担保されていないと、任せることによるグレ−シナリオが顕在化する可能性もあるが、任せることによるロ−ズシナリオを実現することに住民は力を注ぐべきだ。住民参加をどれだけ精緻に行っても限界がある。また、自分の意見をいうだけの住民参加から、より社会性のある責任ある「市民参加」が実現したとしても、執行する立場の自治体側の人材が育っていなければ、市民参加の果実を自治体全体に生かすことはできない。任せるというリスクはあるし、実際任せることによるリスクが顕在化している。しかし、自治体職員は1日8時間専任で自治に取り組んでいる専門家でもある。任せるしか住民側に選択肢はないとも言える。いかにうまく任せるかが重要である。 自治体の職員は政党や特定の団体に与していはいけないが、住民の声を聞く主体性が必要である。しかし、現実は地域の人との人づきあいさえも避ける傾向がある。地域のボランティアやNPO、市民活動で交流する職員は少ない。地域住民と接触を持つ事自体が悪もしくは不純というような文化が自治体組織にはあるが、これでは自治体の本来の意義からは大きく離れている。住民と接触を持ってこその自治体職員であり、ことなかれ主義・減点主義というような評価システムを変える必要がある。自治体内部の評価だけでなく、住民など外部からの評価を自治体職員の評価に追加していくしくみが必要である。首長や議員は選挙という住民からの外部評価を受ける。自治体職員にも何らかの外部評価(住民評価)が必要である。
・オンブズ活動の問題点
市民オンブズ活動が1995年から各地で起こった。この流れは情報公開と説明責任という意味で必然のものであったが、「評価」とはいえない。情報公開という市民の正当な権利を行使し、行政を監視するものである。社会システム上、オンブズ活動は意義がある。しかし、現実の自治体を運営しているのは、職員である。職員を名指しして攻撃するようなら、個別の問題は解決できても総合的には建設的な成果は得られない。悪いことは悪いわけであるが、オンブズの社会的な意義が自治体内に十分理解浸透していない段階では、一件一件個別につぶしていくやり方には限界がある。一件一件個別につぶしていくしか、現状の自治体の悪を変える手段がない程に今の自治体は重病であるということも理解できるが、悪を正すというやり方には、自治体を萎縮させるし、減点主義を助長するということも考えられ、人が育たない。不正をしないという、組織として最低限のモラル維持には機能しているかもしれないが、自分たちの幸せを一緒につくっていくという、本来あるべき協働とは別次元のことである。悪を指摘するのではなく、良を褒める、応援する、評価するプログラムが必要である。悪は組織的環境で慣例化して行われることが多いが、良は自治体職員個人の知恵と工夫、情熱のアウトプットであることが多い。前例主義でなく、共感される新しいことを行った人材を住民側からも評価するしくみが必要である。共感されたかどうかはあくまでも住民側の判断となり、確実は評価方法はありえない。それぞれの住民が、自分の個人の考えとして、自治体が行う事業に対して、評価のメッセージを伝えるしくみが必要である。 幸い、インターネットの普及で、電子投票などのCGIプログラムを組むことで、各事業毎に住民の共感度を計ることが容易となっている。また、インターネットを使えない住民を対象としても、行った事業に対する評価を定期的に自治体にフィードバックさせるしくみがもっとあってもよいはずだ。
・入口(事前)評価から出口(事後)評価へ
直接投票については、間接民主主義の欠点を補う意味で制度的に重要だが、首長や議員に拒否感があるのも事実である。この際の直接投票は将来行うであろう事業を対象としているから議論があるのだろう。自治体に任せ、実施済の事業を対象に、民意をフィ−ドバックさせるプロセスは多様であるべきだし、多段階であるべきだ。実施前からの民意の反映も大切なことであるが、成果は誰にも予想できない。事業実施前という入口で評価するやり方は、民意を反映し税金の無駄を回避するという可能性も持っているが、事後評価よりも困難かつ多大なコストがかかるし、実施主体のやる気を形式化し、人材が育たないという面もある。人を育てるということを考えれば、入口で評価するのではなく、むしろ出口の評価をしっかりするようにすべきだ。例えていえば、予算の段階で事業を見極めるというよりは、決算の評価をしっかりすることで、間接的ながら予算へのフィードバック効果を期待するというシナリオだ。出口の評価をしっかりするシステムがあれば、実施前に首長や議会、そして自治体職員の責任感とやる気が向上するであろう。
・住民評価
評価は自治体内部の論理やものさしで行われてはいけない。評価をするのは主役である住民がすることになる。自治体職員の評価のものさしを、住民からの共感メッセ−ジや応援メッセ−ジとすることが、自治体という組織本来の機能を果たすための「人づくり」に肝要である。 平成10年度まで経済企画庁がPLI(通称豊かさ指標)を発表し、47都道府県を偏差値で評価していた。また、多くの民間研究機関でも県や都市のランキング格付けを行っている。住民1人あたり保育士数とか、住民1人あたり大型小売店舗面積とか、統計数値を偏差値的に加工してアプローチするものだ。しかし、偏差値的アプローチは判断を誤ることがある。例えば、持ち家率に関し、高ければ高い方がよいと評価されているが、転居の自由のために賃貸アパートに住みたいという人もいる。80%の人が持ち家を望み、20%の人が賃貸を望んでいるとすれば、持ち家を望む80%の人が持ち家を所有している80%という数値を最も評価すべきだろう。この場合、90%なら80%より悪いと評価すべきである。 統計数値を基にしたこれらの評価や格付けは、自治体に対して比較という指標と自治体経営のインセンティブを与えるものであるが、人材が育つというような趣旨のものではない。人材が育つためには、各自治体を定量的に評価するのではなく、自治体が行った知恵や工夫を定性的に評価すべきである。自治体が行う事業には、必ずその事業を行う人(=職員)がいる。知恵と工夫で事業に命を吹き込むのは、職員という「人」である。自治体が行った知恵や工夫に対し、住民の共感メッセージや応援メッセージを自治体に伝えることで、それを行った職員(=人)が育つことになる。 地方分権時代は、知恵と工夫の時代である。知恵と工夫を担うのは「人」。人を育てるために、住民1人1人の評価を自治体に伝えていくしくみが大切である。【参考HP参照】

(4)まとめ 【図1〜図3参照】

自治体づくりも人づくりである。人づくりのためには、任せるということが大事である。任せるからには、うまく任せるようにしたい。そのためには、入口による事前評価ではなく、出口による事後評価とすべきである。また、事後評価でも、人づくりの観点からは、個別評価ではなく、全体評価とすべきである。 住民参加ということが盛んにいわれているが、プロセス自体への参加では形式的になったり素人的になったりする。住民参加は、「住民評価」という形でポイントポイント的に行われるのが効果的である。プロセス段階では、情報を持ち専任である自治体職員に任せ、ニーズアセスメントや知恵と工夫の創造が行政参加で実施されるような環境づくりに徹するべきである。そして、任せることによる組織の不正や怠慢を回避するための情報公開と説明責任を大前提に、事前の評価は最小限にして、事後に自治の主役である住民がチェック評価をする環境を、多段階かつ多様に整えるべきである。 私たちは、「住民参加=プロセスへの参加」ということに呪縛されすぎているのではないだろうか。「住民参加」を「住民評価」ということに大胆に舵をきることで、新しい住民参加のステージに踏み出せると考えている。 「住民参加」ではなく、任せることによる「行政参加」とチェックのための「住民評価」で、自治体の人づくりと住民ニーズの反映が有機的に機能し、自治体の本来あるべき姿に近づいていくのではないだろうか。

(本文以上) 資料

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